「そういうもの」ではないよね
加島駅前から大阪駅前までのバスに、加島中のバス停から乗った。
いつもは普通に座れるのだが、今日は車内に隙間がないほどの人混みだった。
ひどい雨だから電車が止まったのだろうかと思った。
私はイヤホンでサンボマスターのベストアルバムを聴いていて、まったく気にならなかった。
そしてのろのろとバスは順にバス停に止まっていく。
いつもと同じように、スマホを見ていると急に停車 !!
田川通のバス停で、運転手が外に出て、
「次のバスに乗ってください」
誰かに話している。
車内が静かな緊張感に包まれた。
バスが動き出す。
窓をみると車いすの男性が見えた。
男性はタイヤを何回もきりながら、放浪するように、バス停から離れていく。
男性は納得のいかない様子で、しばらくバスの方を見ていた。
これは説明の不足だと思った。
ダイヤがずれてしまっていることも、焦りの理由だったのだろう。
だが、それ以上に私は乗客に対する葛藤から運転手は、
時間ロスと配慮の無さから車いすの男性に待ってもらう選択をしたのではと思った。
確かに車いすの男性の外出は苦労も多いのだと思うが、
加島中の時点でこれだけ混んでいるのに、
大阪駅前のバス停に行く人が多い中で、
もっと前のバス停からの乗車客は、
距離にかかる時間から、車いすの男性の人より待ち時間が長いのも確かだ。
バスのダイヤは9時台なら10分おきに来る。
長時間待つ乗車客のことを、運転手は優先的に考えたのではないだろうか。
また、車いすの男性が乗るには、車内の人を降ろさなければならない。
公共交通機関としてのスケジュール通りの運行責任か、
または障がい者に対する配慮かの難しい判断に迫られ、
前者を選択したのだろうが、
弱い立場の人への配慮は社会全体の人間性の育成につながるのではと思う。
何人かの乗客の下車、運行のわずかな遅延によって、
車いすの障がい者への支援ができる。
なんと人間らしい社会なんだろうと思うのだが。
功利主義がどうのこうの言うつもりもないが、
弱い立場に対する配慮、心遣いが全体の福祉につながるのは、
まだ遠いのではと感じた朝だった。